忘却の雨



風が変わった、カガリは天を見上げた。重圧感のある澱んだ鼠色の雲がいつの

間にか空を覆っていた。垂れ下がった雲からはいつ凝結した水蒸気が水滴とな

って地を濡らしてもおかしくはなかった。湿った風が髪を揺らし、息苦しいと圧迫

を感じながら、カガリは再び慰霊碑と向き合う。



大戦の犠牲者の命を追悼するために、遺族や残された者の慰めのために、決

して癒されることのない深い爪痕とそれでも訪れる未来のために、オーブの代

表に就任して初めて立案、行使したのがこの慰霊碑だった。

――二年前の惨劇を二度と繰り返さぬと、

―過去と、その過去に置き去りにされた尊い生命を、彼らを永劫忘れまいと―、

誓った日もやはり似た天気だったと思い返す。先行きは厳しい、予感というより

は告知のように感じられ、そしてそれは的確だった。


いつだって望んでいたのは平穏な世界。人の手で人を傷つけることのない、人

の血とは無縁の、人が人として生きていける世界。手が武器を手にする必要の

ない、言葉で牙を剥き攻撃しあう理由もない、温かい手と優しい言葉とそれに

溢れた世界。


奇麗事だとかあくまで理想でしかないとか、現実を見つめるべきだとの忠告に、

返す言葉に詰まったものの、心の中では叫んだものだ。

―現実を認めるとして、なぜその基準と範囲の中の価値でしか物事を図ろうと

しないのか、打ち破ろうとしないのか。相対的理想と絶対的理想、自分の掲げ

るものが後者だとは思わない。理想は追い求めるものであって、求めることに

真価が問われるのであって、求め続けていく限りは近付くことができるのでは

ないか。たとえそれが僅かなものであろうと、同じ場所で何の変化も迎えずに

留まるよりは――、そしてそれこそが希望だと―――



ポツリ、と目元に水滴があたる。存分に水を含み堪えていた雲は、ついに耐え

切れずそれらを一気に解放した。

立ち尽くし、一人思惑にふけるカガリに雨が降り注ぐ。



――希望を否定され続けようと、否定の中にさえ光を見出すことが出来たのは、

同じ希望を持ち、肯定し、支えてくれる人間がいたから――



ぼんやりと翡翠色の目を持つ青年の顔が浮かび、意志に反して視界が滲み

はじめる。

これは涙なんかじゃない。顔に張り付いてうざったい雨だ。

両手で目と顔を拭うが、シャワーのように降り注ぐ雨は変わらず視線の先を

妨害した。きつく目を閉じ、俯いて唇を噛みしめる。



理解者であり、同志であり、戦友であり、そして恋人だった彼は今、隣にいない。

彼がもしも隣にいたら、選択肢はまた違っていたのだろうか。異なる道が示され

たのだろうか。

あの時もし、封じ込んだ言葉を口にしていたら、縋って涙を浮かべるほどの弱さ

を見せていたら、もし、もしも―――。

助言はない。慰めの言葉もない。

緊迫した世界情勢の中、オーブの代表であるカガリに与えられたのは、地球

連合への同盟締結への最終的決断と、オーブのためという名目の、ユウナ・

ロマ・セイランとの結婚への覚悟だけ。

イエスかノーか。

選択の余地はなかった。心は既に決めていた。



「私は、ユウナ・ロマ・セイランと結婚する」

カガリは小さく呟いた。

「勘違いするな。望むわけじゃない。愛情があるわけでもない。国のためだ。

 だけど、犠牲になるわけじゃない。これは私の意志だ」

―個人の意志はもう捨てた。迷うな、考えるな。

肩を抱きしめて言い聞かせる。けれど、言葉を噛みしめるごとに脳裏に浮かぶ

のは遠く離れた恋人だった。

―忘れなきゃ。忘れなきゃ。忘れるんだ。

強く念じるほど彼の表情や仕草や温度が思い出され、カガリは目を閉じたまま

空を仰いだ。顔に降り注ぐ雨が痛い。



流れてしまえ。

全部、全部流れてしまえ。

想いも思い出も、何もかも消えてしまえ。雨が流してくれればいい。



「・・・どうしてかなぁ」

上空数千メートルから打ちつける雨の痛みの感触は、彼を消してはくれなかった。

瞼を打つ雨は彼の瞼への愛撫を思い出させた。唇に注がれる雨は彼との口付け

を呼び起こした。


カガリは泣いた。







涙と雨の区別はつかなかった。嗚咽も雨音の中に消えていった。むしろ好都合

だった。けれど、彼への想いと恋心はいよいよ膨張していく一方だった。

堪えきれなくなって唇から漏れた彼の名前は雨に消されてしまった。そしてそれは

カガリの耳にさえ届かなかった。













(2005/06/05)












「LOVEPLATONIC」様(管理人:タナベ様)より、15000hitキリリク小説を

いただきました!! うわーーーーーーー、感激ですっっ!!!

「雨」で、切ない系でと図々しくお願いしましたところ、こんな 
素敵なお話

をいただいてしまいました!!!!

もうカガリの切なすぎる気持ちに思わず同調…!!!(涙 !!)繊細で心揺さぶられる

表現の世界に惹きこまれて、もうひたすら溜息です……。

こんな素晴らしいSSをいただいて、もう本当に私ってなんて幸せ者 !!

(あああ、せっかくの素敵なお話に、こんな稚拙なコメントしか出来ない私

……情けなや……/汗)

設定は、本編13話あたり、との事です。

我侭をお願いしたにも関わらず、快くお受けいただき、しかもお忙しい中

こんなに早くにいただきまして、本当に有難うございました〜〜!!!


◎タナベ様の「LOVEPLATONIC」へは、linkからどうぞ♪